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  2013年 10月 10日 (木)

「灯りと共に歩む先に」 本願寺新報7月1日号に掲載された法話です。


灯りと共に歩む先に   
           布教使 艸香雄道

 母の病気が明らかになったのは、昨年の春の頃でした。すでに治療が難しいほど、病気は進んでいました。

痛みだけを和らげる治療を進めることとなり、在宅で緩和ケア専門の先生にお世話になることとなりました。
 自宅での療養でしたから、病気が進行して体力がなくなっていく様子がよく分かります。

夏を過ぎ、秋になりいよいよ動けなくなりました。
食事もほとんど受けつけなくなり、水も飲めません。

 その頃、私は一週間ほど泊まりがけで布教に出かける予定が入っていました。
 「もしかしたら、母の往生にあえないかも知れない・・・」との思いで、覚悟しつつ「行ってくるからね」と話しかけました。
 母は絞り出すように「気をつけてね」といい、いつものように私を送り出してくれました。
 重体の母を気遣い、心配して、「行ってくるからね」と声をかけたつもりが、その母に心配されていたとは・・・。

 最後になるかも知れない母の言葉を噛みしめながら、車を走らせました。
親の思いは、いつも子供の心を越えているということでしょう。

 布教に出かける二、三日前、往診に来られた先生から一枚の紙を渡されました。
先生は、「大丈夫。お母さんはきっとうまく着陸できますよ」とおっしゃいました。その紙には、母の命が終わっていく過程で、心と体に起こりうる変化について丁寧に書かれていました 母が往生したのは、布教を終えて寺に帰った翌日でした。静かな静かな臨終でした。家族全員で、お念仏を称えさせていただきました。

 「穏やかな往生でした。うまく着陸できたのは、先生とスタッフ皆さんのお陰です」というと、先生は「それは、私やスタッフの力ではありませんよ。家族の皆さんが、お母さんにがんばれ、がんばれといわなかったからですよ。がんばれといわれたら、お母さんはもっとつらかったと思いますよ」とおっしゃいました。

 先生の「大丈夫」という言葉は、なくなっていく母の気持ちに寄り添うゆとりを、私たち家族に与えてくれました。

 人生を飛行機に喩えると、離陸が誕生で、着陸が死ということになります。その間は、まさに順風満帆な時あり、暴風雨の中の飛行ありと、様々でしょう。そして、着陸する時、ゆっくり高度を下げる着陸もあれば、急降下もあるでしょう。

 飛行機が順調に飛んでる時は、何も心配ありませんが、突然揺れ出したりすると急に不安な気持ちが起こってきます。
 しかし、「気流の変化で揺れることがありますが、飛行には問題ありません。当機は、順調に飛行を続けています。」と機長のアナウンスが入ると、不安な気持ちが晴れていきます。

そして、飛行機は目的地に向かって高度を下げ、点々と輝く誘導灯をたよりに着陸します。

 阿弥陀様が、お浄土を用意して下さる。この命を引き受けて下さる。そのお心が、「南無阿弥陀仏」となって、私に届いています。 その時その時に口からこぼれるお念仏は、灯りであり、その灯りに導かれてお浄土に向かいます。念仏と歩む人生を、親鸞聖人は「私とともに参りましょう」とお誘いになっておられます。





  2013年 6月 14日 (金)

「最期までご自分らしく生き抜く」を支えた病院スタッフの皆さま


ある病院スタッフ皆さまの「患者さんを思う気持ち」が伝わる内容の手紙が当院に届いたので、紹介をさせて頂きます。

緩和ケア診療所・いっぽ
師長 福田元子様  スタッフの皆様

 梅雨の季節となりましたが、いっぽの皆様におかれましては、ますますご活躍のことと思います。
この度は、〇〇〇〇様の最期の時まで、ご様子をお知らせくださり大変ありがとうございます。
〇〇様とは、貴所に入所される直前まで心理カウンセリングを行い関わらせていただいておりました。
入院生活が長引く中で、〇〇様がどんなに、ご自分の最期を不安に思っていたかを知っておりましたので、〇〇様の想いや、人生観についても、一番相応しい最期の時をお手伝いしたいと、病棟看護師と共に思っておりました。
 しかし、急性期の当院では、落ち着いた環境を作ることはなかなか難しい部分もあり、どうしたら良いのか考えあぐねておりました。その最中に、萬田先生のご講演を聴講させていたくことができ、患者様にとって何が大切なのかを違った視点から見ていけるようになりました。
 その後、〇〇様と何度もカウンセリングを重ねた上、ご本人の意思を大切にして、いっぽ様のスタッフの方々が100%関わってくださるという、石倉ホーム「和が家」に入所したいという希望を確認いたしました。そして、地域医療連携室のMSW田村が貴所との連携を取らせていただき入所の運びとなりました。
 まさかの空床、スムーズな入所決定に、〇〇様とびっくりして、手を取り合って大喜びしたことが今でも目に焼きついています。主治医、看護部長、看護師、MSW、CO皆で〇〇さんと共に大喜びしました。
 「私は幸せですよ。今まで苦労してきたけれど、最期にこんなに良い人たちに出会って、助けていただけるなんて、人生悪いものじゃないです。いっぽさんに行っても、明るいガン患者として、どんな風なキャラクターでいられるか、只今検討中でございます。」と、お茶目な笑顔を見せて喜ばれておりました。
 入所後、何度かMSW田村と私でお見舞いにも行かせていただきました。その度に喜んでくださって、病院にいる時よりずっと元気になっている姿を拝見し、いっぽ様の医療と看護、石倉ホームの温かい日常生活の提供が、どんなに〇〇様の身体と心を喜ばせていたのかと実感いたしました。
 〇〇様に最後にお会いした日は、お亡くなりになる前日でした。
 「いままで大変お世話になりました。病院でもとてもよくしていただいてありがとうございました。
  私とっても嬉しかったです。もう、これで来なくて大丈夫ですよ。仕事に戻ってください。本当にありがとうございました。」
座位になって両手を握り、呼吸苦の中なのにニコッと慢心の笑顔を見せて、そう言ってくださいました。
この苦しさの中では、想像もつかない場面でした。
〇〇様はステキでした。カッコいいです。最期までご自分らしく生き抜かれて、私たちにまでこんなに凄いお別れを言ってくださったのです。心から敬意を覚え、お礼を交わしました。

 
 いっぽの皆様に言い尽くせない感謝の気持ちを書面にするのは難しいことです。こんな素晴らしい最期の時をいただき、私たちにも共有してくださり、とても感謝しております。 ありがとうございました。
 これからも、多くの患者様がご自分らしい最期を迎えられるように、ぜひ連携を取らせていただけましたら幸いです。今後ともご指導宜しくお願い申し上げます。
  私が申し上げるのも僭越ですが、いっぽの皆様におかれましては、多くの皆様にたくさんの愛を注がれていらっしゃる分、どうかご自愛くだいますようお祈り申し上げます。        

    平成25年6月3日
    黒沢病院総合カウンセリング室 室長 高野 雅子





  2013年 3月 16日 (土)

「幸せのさなかに」


Ayuko

「今夜でもおかしくない状態です。ご主人とあの世での待ち合わせ場所を決めておいてくださいね」
診察の後、玄関の外で医師は私にそう言った。
看護師が、「奥さん、しっかり」と肩を抱きしめてくれた。
その途端に涙があふれ出た。

医師らの車を見送った後、私は涙をぬぐい、寝ている夫の部屋に何気ない顔をして戻った。
夫が私に訊ねる。
「外で何か話していたの?」
「うん」
「何だって?」
「もう話せる時間はあまりないかもしれないって」
「そう、それはすぐってこと?」
「うん、今夜かもしれないって」
「そう、それは大変だね」
夫はまるで人ごとのように、いつもと変わらない調子でそう言った。

昨年の秋、腸閉塞で入院。大腸ガンだった。
すでに腹膜に転移しており、手術をしても完治は望めなかった。
それを知った時の私のショックは大きく、胸が張り裂けるという感覚を初めて経験した。
けれど当人は、まるで動揺などしていないかのようにこう言った。
「人間は誰でも生まれたときから死に向かって一歩一歩近づいている。それはガンであってもなくても同じことだ。だからこれまでと何も変わらない。楽しいことを考えて笑顔で過ごしていこうや」と。
私はその言葉に頷き、近い将来ひとりになってしまう不安を心の奥深くに沈ませた。残された時間を不安におびえて台無しにしないように、今まで通り夫とふたり、毎日を心穏やかに楽しく過ごしていこうと決めた。

手術の後、総合病院の外科医は、すぐに化学療法をと勧めたが、夫はこれを断り、なるべく自然に近い状態での生活を続けていくことにした。
これは治療をあきらめたということでは決してない。
むしろ積極的に、「自然療法」という治療法を選択したのだった。

余命まで告げられている状況に、私たちは出来る限りの情報を集め検討し、結果この選択をした。
「今ここをあるがままに」というこれまでの人生観に根差した結論でもあった。
知り合いの漢方薬剤師から、薬の処方と日常生活のアドバイスをいただいた。
「ガンは本来静かな病です。自然の流れに従えば恐れるような苦痛はないのです。身体の免疫力を上げて良い状態を維持していきましょう」                     
私たちは家庭菜園で採れた野菜で玄米菜食を楽しみ、気功を行い瞑想をし、近くの田畑の小道を毎日ふたりでのんびりと散策した。
秋から冬、冬から春へと移ろう季節の中に、ふたりの時間をたっぷりと浸み込ませるように。
自分たちが自然の一部であるということをこんなにも身近に感じたことはあっただろうか。
命を得たものは必ず滅する。それは自然の理だ。いずれ死が訪れるときには、自然のままに枯れるように逝きたいということは、身近な人の死を経験するたびに、ふたりで話し合ってきたことだった。
そういう死の迎え方を可能にしたのは、訪問緩和ケア診療所との出会いがあった。
食が細くなってきた春先、先の薬剤師に紹介され、その診療所を訪ねた。
医師は「病院でできて家でできない治療は何もありません。痛みのコントロールも十分可能です」とにこやかな表情でさらりと言った。
医師はその言葉の通り、腹水を抜く処置を一時間足らずで鮮やかに行った。
医師と看護師と夫と私四人で談笑しながらごく自然な流れのなかで。
私はこの時、彼らの高い医療技術に信頼をもった。
同時に、夫を病人としてではなくひとりの人間として対応してくれていることが嬉しかった。
今まで通り自宅で過ごすことへの不安は何もなくなった。
その後も医師らの適切な処置のおかげで痛みも苦痛もほとんどなく過ごすことができた。
のんびりと心穏やかに、病になる前と同様に夫とふたり様々な事柄を語りあい、今生きていることの幸せを味わった。

初夏を思わせる温かな夕暮れ時、医師は言った。
「私たちはおふたりのお別れの時間をできるだけ良い状態で過ごせるように、できる限りの方法を使っています。けれどそれには限りがあります。魔法の時間はもうあまり長くはありません。大切に使ってくださいね」
あるいは魔法だったのかもしれない。
何の医療機器に繋がれることなく、数種類の薬と看護師の温かなケアだけで、最後の日まで穏やかな時間を過ごすことができた。
身近な人たちと感謝の言葉を交わすゆとりを持って、死を迎えることができたのだった。

常に「今」を生きてきた夫には、最期にあたってやりたいことも会いたい人もいなかった。
私たちはただただ、ふたり一緒の時間を少しでも長く過ごしたかった。
私は貴重な時間の一瞬一瞬を心に刻みつけた。
それは三十二年間のふたりの生活の終わりに、これ以上ない深い愛情と絆を感じられた幸福な時間でさえあった。
夫は以前から「死は別の存在形態への移行点にすぎない」と言っていた。
私もそれを受け入れ夫の死をひとり心静かに看取ることができたのだった。
幸せのさなかに・・・。





  2013年 2月 16日 (土)

自分らしく生きる


「抗がん剤の副作用が強くて、死んでしまうかと思った・・・」
「苦しい抗がん剤をするなら、抗がん剤をしないで死にたい」
「入院はしたくない」
「延命はしたくない」
「民間療法・・・それと、自分の力で生きたい」」

副作用で苦しむ姿に
「抗がん剤は止めよう」と娘が諭し、
治療を中止し、在宅療養といっぽの訪問が始まった。


抗がん剤による苦しみからは解放されたものの、
がんによる発熱や腫瘍の増大による痛みに襲われることは幾度となくあり
日々異なる体験をもたらした。
しかしNさんは・・・

「家にいると、病人ではないようだわ・・・」と、
趣味と仕事を兼ねた、レザークラフトの作品を看護師に見せ、
やり方を教えてくれ、作品をプレゼントしてくれた。
キラキラと瞳を輝かせながら、仕事や自分の生き方を語る姿は
とてもイキイキしていて輝いていた。

何より、住み慣れた家で家族と過ごすことができ
人間らしく、自分らしく、毎日を過ごすことができた。

「子供たちに大切にされ幸せだと実感している。」
「今まで自分が娘にしてきたことを娘がしてくれる。」
「病気になって得たことは『娘の優しさ』」

「娘も息子もお嫁さんも自分にできることを見つけて
それぞれにサポートしてくれる。」
娘と息子に「このまま家で暮らして良い?」と聞いたら、
「大丈夫だよ。この先のことは何があっても大丈夫だと言ってくれた」
自分が居なくなってもみんなでやっていけると思えた。
逆に、みんなが良くしてくれるから少しでも元気になりたい・・・


痩せて体力が落ち小さくなっていく母の姿に娘は
「仕事を休んでずっと看てあげたい・・・」と悩んだが、
本人が望むことを中心に仕事と両立しながら出来る範囲で支えていった。


自分のことが出来なくなり、下の世話になるようなら早く逝きたい・・・
そんな事を言いながら、

形見分けは1か月前に・・・

亡くなる2日前には食事もでき・・・

最期まで下の世話になることなくNさんは生き抜いた。


自分らしく死ぬのではなく
自分らしく生きる。

ガンと宣告を受け、生きるより死の方が頭の中を支配することもあったが
全てを認め、全てを受け入れ、その中でも自分らしく生きぬくことをNさんが教えてくれた。


痩せて小さくなったNさんだったが
最期のお顔は穏やかで、女神さまが微笑んでいるような・・・
とってもきれいなお顔だった。





  2012年 7月 19日 (木)

「父の教え」


* 患者さんの娘さんより手紙を頂きました。



緩和ケア診療所・いっぽの皆様へ


父を看取ってから早いもので、もう1週間が過ぎました。初七日を終えた今も、お線香をあげに立ち寄って下さる方々が絶えず、父の存在の大きさを改めて感じております。
 

今回自宅で父を看取ることができたことは、家族にとっても、そして当の父にとっても大変幸せだったと思います。父は、亡くなる1週間前まで自分の足で歩き、3日前まで口からものを食べ、前日まで母や私を呼んでくれました。点滴の針も、バルーンカテーテルも、酸素マスクもなにもつけず、苦しむことなく、家族に見守られながら静かに息を引き取りました。最後まで父らしくいられたのは、自宅にいたからこそと思います。


そして、それは、いっぽの先生方と看護師さん達の支えがなければ、到底なしうることではありませんでした。今振り返ると、節目節目で、皆様に教え導いていただき、なんとかゴールにたどり着けたように思います。


いっぽにかかるようになったのは、がんの診断から半年が過ぎ、だんだん父が痛みや不安を訴えることが多くなった頃です。日に日に元気がなくなっていく父を見ているのがつらく、体と心の痛みをケアしてもらいたいという一心でした。


訪問が始まってすぐ胆管に入れていた管が閉塞し、A病院でステントを挿入しましたが、痛みがひどく、ろくにものも食べられない状態で退院となりました。「麻薬なんて飲んだら最後。食べると痛みがひどくなるから何も食べたくない」と言っていた父に、萬田先生はひとつひとつ丁寧に麻薬の効用を説明してくださり、痛みをコントロールできれば、まだまだ普通に生活できると、父を励ましてくださいました。


それから父は、麻薬を使い、自分で痛みをコントロールするようになり、食事や仕事もできるようになりました。年の瀬の除夜の鐘つきでは、寒空の中、私と一緒に日付が変わるまで甘酒を配ってくれました。お正月の2日は、近くの温泉に入って家族とゆったり過ごすことが出来ました。正直、A病院を退院した時は、このような穏やかな日々がもう一度訪れるなど、思ってもいませんでした。

 
2月の終わり頃から、だんだん認知がおかしくなってきました。日付や曜日、数字がめちゃくちゃになり、何かに没頭して何時間もそれにかかっていても、ひとつも出来ていないということが目につくようになりました。また足のふらつきがひどくなり、杖をついて歩くようになりました。それでも3月8日の高齢者の免許講習はなにがなんでも行くと言って、こちらの心配をよそに、知能検査や運転技術の検査を見事クリアし、免許を更新することができました。


そしてA病院を離れる時が来ました。その少し前に、萬田先生、佐々木さんとお話する機会を持たせていただきました。この先、どうしたいのか。自宅で過ごすのか、病院で過ごすのか。父の気持は自宅と決まっていましたが、正直それを支え切れる自信がありませんでした。そんな私たちを見て、萬田先生が「自宅に最後までいられるだけで、90点ですよ。」とおっしゃいました。この言葉が、私たちの背中を押してくれました。A病院の最後の診察時、「これからは、抗がん剤の治療はかえって体に害を及ぼすのでやめます。A病院で治療することはなくなるので、これからはいっぽの先生に診てもらってください。」と言われました。人によっては「さじを投げられた」と受け取りかねないこの言葉を、私たちは「ようやく煩わしい受診から解放されてよかった」と受け止めました。信頼するいっぽの先生と看護師さんがついているのだから、不安は感じませんでした。


A病院の受診が終了してから看取りまでの1カ月間が、本当の戦いの日々でした。睡眠リズムはめちゃくちゃ、移動や排泄の介助はもとより、何をするかわからないので一時も目が離せない、また認知状況が悪くなっている半面、感情は冴えわたり、母への要求とそれが思い通りにいかない時の言葉による暴力はエスカレートしていくばかりでした。私は寝床を父の部屋の近くに移し、音がする度に起きて、父の相手をしました。昼間一人で家事と父の世話を担っている母に、夜くらいはゆっくり休んでもらいたい一心でした。


しかし、だんだん母の心も折れてきました。145cmの母の体に180cmの大男がもたれかかり、体が思い通りにならない苛立ちを全てぶつけてくる状況は、あまりにも過酷でした。ただ救いは、そんな母のSOSを皆様がすばやくキャッチしてくださったことです。「お母さんが困らないように」と声をかけてくださったことが、どれだけ母の励みになったことでしょう。


ケアマネさんやデイサービスの方々ともうまく連携してくださり、皆様に「支えられている」ことを心から実感しました。


デイサービスの方々には、本当によくしていただいて感謝の気持ちでいっぱいです。ターミナル期に入ってからの利用でしたので、利用を勧められた時は、正直もう遅すぎるのではと思いました。しかし、意外にも父はとても居心地がよかったようで、ディに行く日を楽しみにしていました。お習字やピンシャン体操の先生をさせていただくなど、父にできることをうまく引き出してくださり、灰色だった父の時間が色付けされたように思えました。この時期に新たな楽しみが見つけられたことは、家族にとっても大きな救いでした。


ケアマネさんにも、大変お世話になりました。日々状況が変わる中、ディサービス、ヘルパー支援、歩行器、ベッドとタイムリーにサービスの提示/変更をしていただきました。

 
今、在宅療養を選択して、本当によかったと思います。色々反省点はありますが、90点はもらえたんじゃないかなと思います。月並みですが、家族の絆も深めることができました。死が間近に迫った父と同じ空間に、生命力あふれる子供達がいてくれることは、私の心のバランスをとるのに大いに役立ちました。子供達なりにがんばってくれたし、たくさんのことを学んでくれたと思います。


私の一番の学びは、どんな状況にあっても「望み」はあるということです。「今できること」をしていれば、何らかの光が見えてくるということです。そして皆様の献身的なサポートが、私たちに前に進む力を与えてくださいました。

  
まだまだ、言葉は尽きませんが、長くなりましたので終わりにしたいと思います。
最後に、皆様の今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。



A・K





  2011年 11月 29日 (火)

『妻として・・・ 母として・・・』


「抗がん剤は辛いけど全く治療をしないのも不安なの・・・」

さち子さんは夫と娘2人の4人家族。
抗がん剤を継続するには、さち子さんの身体はギリギリの状態だったが、自分を支えてくれている家族の為にも治療を諦めきれない心の内をゆっくり噛み締めるように話された。
家族全員が、さち子さんの身を案じながらも、抗がん剤を継続するか否かの狭間で悩んでいた。

そんな悩む気持ちに寄り添いながら訪問を続けたある日、
「緩和ケアとは末期(死ぬ間際)のことだと思っていたが、色々話を聞いてそうではないことが少しずつわかってきた」
「出来るだけ家族に迷惑をかけず、家で普通の生活がしたい」と、抗がん剤を止めて緩和ケアを受けながら最後まで家族と家で生活することを決断された。

朝目覚めればリビングに移動。
身体がおおごとでも家族との時間を大事に、横になりながらも自営業の夫の事務仕事の手伝いや家の手伝いをこなし、夫の食事の心配や外出する娘に気遣いの声をかける姿が見られた。
そんな、さち子さんの姿は病人というよりこの家を支える妻であり、母である貫禄が漂っていた。

娘たちは母のために何ができるかを各々考え、姉は父の事務仕事を母から引き継ぎ、妹は大学院を休学し母の為の食事作りや母の好むお菓子作りを率先して行い、介護と家事業を分担して母を支えていた。

家族揃って出かけた伊香保温泉旅行ではたくさんの笑顔の写真をアルバムに収め・・・
母の為の手作りのミニコンサートでは、母に宛てた手紙を読み、感謝の気持ちを伝え・・・
それはまるで結婚式で読む『花嫁の感謝の手紙』の様。
「ごめんなさい」「ありがとう」と、「お母さん大好き」が入り混じった手紙。
「数ある愛情の中でも、母親の愛に勝るものはありません」と母を労う言葉。
さち子さんは娘2人を愛おしそうに見つめながら、読み上げられる言葉に目頭を押さえた。


徐々に病状は悪化し、下半身は浮腫みでパンパンとなり、ほとんどベッドで過ごすことが多くなったが、娘達は交代で母に付き添い、時にはマッサージを、時にはトイレまでの移動の介助を行い、母と過ごせる日々を惜しむように傍で見守り、大切な時間を過ごした。

亡くなる2日前にはさち子さんの部屋で家族全員一緒に食事をして一家団欒の時間を持ち、看取りの際には家族全員が揃った中で、静かに静かに息を引き取った。

娘2人に化粧され、綺麗な顔をして眠るさち子さんの表情は、病気やこの世の苦から開放され、まるで優しく慈悲深い観音菩薩のような穏やかなものだった。
2人の娘は母の傍で、「見て、お母さんかわいいでしょ」と泣きながらも満面の笑みを見せ、家族全員穏やかな看取りとなった。


母として2人娘の将来を案じ、妻として夫の仕事や会社のことを案じ、病気と闘いながらも家族の事を思いやる強さがさち子さん自身の闘病生活の支えとなっていたのかもしれない。

by万里





  2011年 2月 15日 (火)

『愛していると伝えたくて』


退院へ向けて開かれた会議の席で医師が患者さんの妻に尋ねる。

「家に連れて帰って何をしてあげたいですか?」
「言うのはタダだから、叶えたい希望を幾つでも言ってみてください(笑)」

退院するのは胃がん・肝転移末期の60代の夫。
昨年の12月に再入院し、化学療法を受けたものの副作用が強く治療を断念。
数日前から意識障害があり夢と現実の狭間で傾眠状態である。
妻は涙ながらに、ゆっくりかみ締めるように話し出した。

「まずは家に連れて帰りたい・・・帰らせてあげたい。そして、ぐっすり眠らせてあげたい」
「点滴を抜いてメリハリのある生活にしてあげたい。少しでも意識がハッキリしてもらえたら・・・」
「口から食べられると嬉しい。夫は外食が好きだった(笑)」
「入浴させてあげたい。訪問入浴に入れてあげたい」
「布団のすぐ隣りにコタツがあるのでそこに座らせてあげたい」
「そして・・・できる限り長くいっぱい一緒に居たい」

「でも一番は・・・痛く、苦しくなく過ごしてさえくれれば・・・」
「本人が帰りたいと言っていたので、帰れれば良いです」
それが一番の望みだと、妻も娘も涙ながらに退院を決断した。

「1週間勝負です」
「家に帰ったことがわかってもらえると良いですね」医師もその決断を受け入れた。

〈帰宅日〉
意識障害が強く、ほとんど呼びかけに応答できず
ケイレン発作があり薬を用いた
その結果、翌朝までぐっすりと眠り続けた

〈2日目〉
意識状態が改善。表情もしっかりして会話ができるようになる

〈3日目〉
念願の入浴。体中ピカピカに磨きあげられた
「あ〜気持ち良い〜♪」の連発
娘にもらったミッキーマウスのパジャマに着替え
昼食に出前でラーメンをとり、数口食べた

〈4日目〉
妻と娘に支えられてコタツまで歩き
座椅子に座り、娘さんの差し出す氷を美味しそうに食べた
妻と娘とピースサインで写真撮影会
夜には妻の作ったカレーも食べた
妻、娘、孫、父、弟夫婦、近親者みんなに会えた

その日の夜から急激な意識障害が出現。昏睡状態となり、永い眠りにつく。
「信じられない・・・」「嘘のような4日間だった・・・」妻は本人を前にしてポツリ呟いた。


退院時の身体の状態を振り返れば、お風呂に入って喜ぶ姿も、娘さんに氷を食べさせてもらう嬉しそうな姿も、奥さんとピースサインを力強く出す姿も、全部奇跡のような日々だった。

妻はその時間を振り返り
「あっという間だったけど、痛い苦しいを言わずに逝けたので、夫には良かったのですよね・・・」

「いつもは絶対にそんなこと言う人じゃなかったのに、『ありがとう。ありがとう』って毎回言ってくれたの」
「そしてね、私に『愛している』って言ってくれたのよ」嬉しそうにはにかむ。


家族が家に連れて帰ったのは夫のため。
夫が家に帰りたかったのは家族に愛と感謝を伝えるため。
最後の力を振り絞って奇跡を起こしたような・・・
そんな大切な時間は、妻の胸に永遠に残ることだろう。


by万里











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